第二総軍研究所 

 

第二総軍将校職員表

 第二総軍に所属する軍人・軍属は約400人と言われているが、当研究所はこのほど旧軍作成の「第二総軍将校職員表」を入手した。この職員表は「昭和20.7.1 第57軍司令部、同軍直部隊将校職員表」に綴じ込んであるもので、手造り冊子の表紙には附属を意味する「附」に「第二総軍司令部、第16方面軍司令部将校職員表」とある。
 第二総軍の一覧表は冊子の冒頭に綴じ込まれ、B4版の和紙にガリ版印刷、「軍事機密」「人事極秘甲」などの赤色印が押してある。表には、軍人125人の名が記されている。
 以下、紹介する。

総軍司令官   元帥大将 畑 俊六
幕僚 総軍参謀長  中将 若松只一
   総軍参謀副長  少将 眞田穣一郎
参謀 (野重)中佐 李ぐう公(ぐうは金ヘンに禺)
   (歩) 大佐 井本熊男
    (野山)大佐 片山二良
   (航) 大佐 西岡 繁
    (野山)中佐 村田 武
   (歩) 中佐 眞木眞徴
   (機甲)中佐 遠藤 蓁
   (歩) 中佐 長谷川壽雄
   (歩) 中佐 白石通教
   (野山)中佐 橋本正勝
   (歩) 少佐 田村菅吉
   (歩) 少佐 平野斗作
   (船機)少佐 川村康雄
海軍 大佐 花岡雄二
海軍 中佐 千早正隆
副官 (歩) 大佐 益森芳男
  (機騎)少佐 酒井重雄
  (歩) 少佐 高田忠重
  (機甲)中尉 木村 正
王侯附武官(野山)中佐 吉成 弘
兵器部 部長 中将 森田 廣
部員 (機騎)大佐 梁瀬 泰
  (歩) 少佐 川嶋平吉
経理部 部長   主計中将 森 武夫
部員   主計大佐 森口徳治
    主計中佐 今井省三
    主計少佐 山田徹治
    主計大尉 上阪寛蔵
軍醫部 部長   軍医中将  田中 巖
   部員   軍医大佐 山本明治
       軍医少佐 一ノ瀬眞平
       薬剤大尉 藤井虎之助
獣醫部 部長   獣医中将 山根定吉
   部員   獣医大佐 安田純夫
       獣医大尉 田村英二
法務部 部長   法務少将 大田原清美
   部員   法務中佐 永淵芳夫
        法務見士 松本靖一

参謀部附 庶務 (歩) 大尉 浅倉靖三
(歩) 少尉 原田 明
人事 (歩) 少尉 美甘照雄
作戦 (野山)中尉 三好猛大
(野山)少尉 金井 清
情報 (歩) 少佐 石井 正
(歩) 中尉 四夷伸平
(歩) 少尉 三宅義生
(歩) 少尉 松原 要
(歩) 少尉 大崎 眞
(歩) 見士 上原郁雄
主計中尉 廣瀬達夫
防衛 (高) 少佐 岸本秀三郎
(歩) 中尉 寺岡良一
(野山)少尉 松尾一眞
(機甲)少尉 藤本祐次
航空 (歩) 中尉 本射武蔵
気象 (気象)少佐 小原敏實
(気象)少尉 津田武男
通信 (電) 少佐 高橋 仁
(電) 中尉 小林昌敏
暗号 (輜) 少佐 柳内賢治
(歩) 中尉 松村辰夫
(輜) 中尉 安保正義
(船)中尉 石田五郎
(歩) 少尉 有井正義
(歩) 少尉 相澤一郎
交通 (輜)大尉 阿部重市
(鉄)中尉 安井寛治
(歩)少尉 辻 正三
兵站 (歩)大尉 石井 泉
(歩)中尉 有城榮之助
(歩)少尉 森口幸八郎
防衛作戦・防空通信 (歩)中尉 足木金一
(輜)中尉 永井康雄
(野山)中尉 景山八郎
(野山)少尉 明楽 浩
(歩) 少尉 西川二郎
(歩) 少尉 山本喜代治
(通) 見士 横田久治郎
(通) 見士 山本 洋
通信班 (歩) 少佐 上田忠則
(通) 見士 桐田 博史
飛行班 (●) 大尉 早川竹太郎
写真印刷 (歩) 大尉 原 安正
技師(七、八)鈴木鑛治
司令部附 管理部 (歩) 中尉 雨森善太郎
(輜) 中尉 後藤俊雄
(輜) 少尉 中野正一
(野山)少尉相原正敏
築城指導 (●●)中佐 安成季隆
築城部 築城・交通
            (●) 少佐 戸上 巖
(輜) 大尉 小城 林
(鉄) 中尉 佐々井博
(野山)中尉 三木森治
(輜) 中尉 柚木正巳
(輜)少尉 三澤 弘
技術少佐 鎌田克己
技術見士 廣谷 浩
技師(六、九) 梶谷 勝
備砲、通信、特殊、工事 
             (野山)中佐 坂東八洲雄
    技術少佐 石川巖夫
    技術大尉 根本省三
    技術大尉 堀本昌信
    技術中尉 石田武
    主計少尉 和田正一
副官部附 主計大尉 佐々木定良
兵器部附 技術中尉 佛性尚道
    技術少尉 中島良夫
経理部附 主計中尉 中井三之助
軍医部附 軍医少佐 千田 通
司令部附
    大阪鉄道司令部 (ケ)少将 加藤 定
廣病附 (ケ)衛見士 大野市
入院 少将 寺倉小四郎
参謀部 法制 教授(五、七) 木村岩蔵
兵要地理  臨時嘱託(三等級)下村彦一
        立松和男
    小島知彦
    櫻井秀雄
(歩)少尉 江頭淑夫
(歩)見士 菊井正三
(歩)見士 多田進三
(歩)見士 新井荒太郎
(歩)見士 中山紀夫

(●)は文字不鮮明で判読不能

 


第二総軍とは

 ■第二総軍とは

 1945年4月7日、政府は東京に陸軍の第一総軍、広島に第二総軍、航空総軍司令部を新設した。第一総軍は鈴鹿山系以東を担当、司令官に杉山元元帥が任命され、第11(東北)、第12(関東)、第13(東海)の各方面軍を統括した。第二総軍の司令官は畑俊六元帥で、第15(近畿、中国、四国)、第16(九州)方面軍を指揮、西日本を統括することになった。北海道は第5方面軍、朝鮮は第17方面軍が担当した。航空総軍の司令官には河辺正三大将が就任、東部日本の第1航空軍、西部の第6航空軍、および第51、第52、第53航空師団を統率した。
 
 第二総軍の司令部は広島市の東北部、広島駅の北西500メートルにあった旧騎兵第五連隊の3階建の元兵舎に設けた。この一帯は二葉の里と呼ばれ、司令部の北方には標高139メートルの二葉山があり、爆心地から1.7キロの地点である。

 第二総軍の司令官に任命された畑俊六元帥は、福島県会津出身で、「支那派遣軍」の司令官などを歴任、陸軍大臣の経歴を持つ軍人だった。
 第二総軍創設にあたっては大阪の中部軍が編成を担当、4月15日には編成を終えた。畑司令官らの幕僚は4月8、9日の両日、大本営において命令を受領、13日には大阪の中部軍司令部に到着、15日の編成完了後、第15、第16方面軍司令官に対し、最初の命令を下した。
 4月17日、一行は大阪を発ち、汽車で広島に向かった。夕方、広島に着き、18日には現地に陣営を張った。

 司令部は、司令官に畑俊六元帥、参謀長に若松只一中将、参謀副長に真田穣一郎少将、参謀・第一課長に井本熊男大佐、第二課長に片山二良大佐、航空担当に西岡繁大佐、防空担当に村田武中佐、人事担当に長谷川寿雄中佐、情報担当に真木真徴中佐、作戦担当に藤原岩市中佐(45年6月10日第57軍に異動)、通信担当に遠藤蓁中佐、編成担当に白石通教中佐、教育訓練担当に李ぐう中佐、作戦担当に橋本正勝中佐、兵站担当に平野斗作中佐、船舶担当に川村康雄少佐で構成された。
 このうち、若松只一参謀長は45年7月18日、岡崎清三郎に代わった。また、日時は不明だが、真木真徴参謀に代わり大屋角造が情報担当に就いた。(「真木は体が弱かった」という記録がある)井本は、7月12日、大阪で初めて第二総軍参謀に任命されたことを知る。13日、畑らと合流、司令部の一員に加わり、関係事項の説明を受けてようやく全般の事情が頭に入ったという。
 統帥権の内容は軍令、軍政の両面があったが、総軍の任務は軍令面に限定され、軍政面は従来担当していた軍管区司令部が担当することになった。

 終戦時の司令部は次の通りだった。
 総司令官・畑俊六元帥、総参謀長・岡崎清三郎中将、総参謀副長・真田穣一郎少将、高級参謀・井本熊男大佐、高級副官・益森芳男大佐、兵器部長・森田広中将、経理部長・森武夫主計中将、軍医部長・田中巌軍医中将、獣医部長・山根定吉獣医少将、法務部長・大田原清美法務少将。
 
 原爆被爆直前の広島市は、第二総軍のほか、陸軍の船舶輸送の中枢としての船舶司令部、中国地方陸軍諸部隊の中枢としての中国軍管区、そのほか第59軍・中国憲兵隊・広島地区鉄道部隊の各司令部の所在地であった。

 第2総軍司令部は9月17日、市外船越町の日本製鋼所広島製作所に移り、その後、大阪に移動した。


終戦時の第二総軍」(図)
                          ―― 第15方面軍 <楠> 司令官  内山英太郎  
 第二総軍(広島) 司令官 畑俊六        |       |
             参謀総長 岡崎清三郎 |     第59軍(中国軍管区)
                         |             司令官 谷 寿夫
                        |              参謀長 松村秀逸
                         ―― 第16方面軍 <睦>  司令官  横山勇

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日米情報戦争―海外放送傍受 

 第二総軍の重要な任務の一つは、海外放送とくにアメリカの放送の傍受だった。
 
 真珠湾攻撃に始まった日米戦争により、米国内では日本人と日系アメリカ人に対する「排除」の政策が始まった。日系人が多いカリフォルニア州ではオルソン知事と、ウオ―レン検事総長日系人排除に賛成、米国政府内でもスチムソン陸軍長官ら首脳部が日系人の強制収容を支持し、1942年2月19日、ルーズベルト大統領は大統領行政命令に署名した。

 一世の両親から離れ、一旦日本で教育を受け再びアメリカに戻った二世は「帰米二世」と呼ばれた。彼らを中心とした日系二世は、太平洋戦線に派遣され、対日情報工作に従事。その数は6000人にも上った。
 早稲田大学を卒業後、日米関係が悪化する中でアメリカに帰った「帰米二世」の一人、フィル・スナオ・イシオ(広島県出身)は1996年、CIAが主催してワシントンで開かれた歴史セミナーで「米軍は1943年5月には、計4万人の日本陸軍将校の名前を網羅したリストを作成した」と報告した。

 一方、日本側も情報工作を目的にアメリカ、カナダから日系二世を集めた。1937年、外務省情報局長に就任した河相達夫(広島県出身)の発案で、欧米等の放送を傍受する外務省ラジオ室が設置された。

 日系二世、アイバ・戸栗は「東京ローズ」の名前で米兵向けの謀略放送に従事した。また、東京近郊や広島などで秘かに海外放送や通信の傍受が行われた。しかし、日本の情報工作の規模はアメリカ軍の徹底した工作には全く及ばなかった。

 (『秘密のファイル』 春名幹男 2003年 より 要約) 
 

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女高師附属山中高女から第二総軍へ

■広島女高師附属山中高女から第二総軍へ

 広島女子高等師範学校附属山中高等女学校には原爆投下当時、1432人の生徒がいた。このうち2年生5人が第二総軍に動員されていた。

 また、日本製鋼所に動員されていた専攻科の数人が1945年4月頃から、総軍暗号班で働くための準備教育、8月1日から7日まで特別予備教育を4年生とともに受けていた。そして8月8日には第二総軍に転属、入隊の予定だった。
 広島陸軍糧秣支廠に動員されていた4年1組を中心にした51人も、4月頃から準備教育、特別予備教育を受け、8日、第二総軍に転属、入隊を予定していた。

 8月6日朝、4年生約100人が朝会が終わり、第二総軍の兵士による暗号教育の訓練が始まる前、校庭付近にいた。

 被爆した生徒のうち第二総軍関係の生徒18人が死亡した。(『原爆戦災誌』第4巻では、第二総軍関係は22人が即死となっている)
 
 引率教官は山中、多賀、橘、中本、曽我、吉田、川上の各教官だった。

 (『生死の火』1975年、『追悼記』1985年、『追悼記増補』1993年、「原爆戦災誌・第4巻』 より)
 

 

学徒動員 広島女学院の場合

2010/4/23(金) 午後 6:36 そもそも 歴史


 ■学徒動員 広島女学院の場合

 1941年、学徒報国隊が結成され、広島でも学徒動員が始まった。1944年5月には、広島県勤労学徒動員本部が設置された。
 広島女学院には高等女学校と専門学校があった。
 高女の場合、生徒総数は826人。東洋工業に280人、呉の第11航空廠に50人、広島鉄道管理局に72人、基町の師団司令部に5人、財務局・税務署に29人、建物疎開作業に350人で、第二総軍には「暗号翻訳」の作業内容で40人が動員されていた。また、教職員計21人が引率者として加わっていた。
 専門学校の場合は生徒総数313人。、東洋工業278人、財務局・税務署は25人、師団司令部には10人、引率教職員は5人だった。

 建物疎開作業に動員されていた高女の1、2年生350人の半数は雑魚場町へ行った。そのうちの半数は前日の作業量と人数の関係から、8月6日当日は自宅にいた。350人のうち50人は呉の航空廠、50人は二葉の里、そのほか、西蟹屋町、松原町、八丁堀、基町などへ10数名が動員された。動員先で被爆し即死したものとみられるのは生徒281人、教職員16人。
 専門学校の大半は東洋工業に動員され、八丁堀の広島財務局・税務署に出動していたのは25人。動員生徒の即死者は44人、教職員4人だった。

 (広島女学院職員組合『夏雲』1973年より)


動員された女子学生
  ■動員された女子学生

 第二総軍は、アメリカから帰って来た二世の女性らを集め、海外の通信、放送の傍受と日本各地の軍に情報を伝える仕事をさせていた。その中には、多くの学生がいた。
 『広島原爆戦災誌』に、動員された学徒の状況がある。

 広島女学院高等女学校は爆心地から1.2キロ、上流川町にあるキリスト教の学校だ。二葉の里の第二総軍司令部に動員された生徒は、40人。「作業内容」は「暗号翻訳」とある。
 全校の即死者は、教師を含み297人とされているが、第二総軍での死亡者は不明。(『広島女学院百年史』によれば、「第二総軍司令部での死者は2~3名、縮景園では全滅」とされている)

 比治山高等女学校は、爆心地から2.9キロ、霞町にあった。二葉の里の第二総軍には4年生40人が動員された。「作業内容」は「暗号通信教育」とされている。比治山高女は、広島城にあった中国軍管区司令部にも3年生90人が動員され、飛行機の情報の受信、発信に従事していた。外の広場で竹槍訓練中の70数人は、直接被爆、64人が死亡した。
 第二総軍では1人が死亡されたとされている。

 広島女子高等師範学校および附属山中高等学校は、爆心地から1.7キロの千田町にあった。
 1945年7月、広島女子高等師範学校が設立された。それまであった山中高等女学校は廃止され、同高女は女子高等師範学校の附属校となった。7月21日、入学式が行われ、8月6日には最初の授業が行われる予定だった。当日は、第二総軍暗号係の兵士が「動員学徒について協議のため」、来校することになっていた。その兵士による訓練が始まる前、4年生約100人が朝会のあと運動場などにいた。第二総軍司令部暗号係として勤めるはずだった生徒のうち18人(『原爆戦災誌』では22人)が即死した。全校では教師5人を含め404人が即死した。

 県立広島第一高等女学校は爆心地から600メートルの下中町にあった。4年生約50人が第二総軍救護班として動員されていた。8月6日は、南側校舎2階で生徒約50人、教職員約10人、校医1人が看護の講習を行っていた。天井を破り火炎をくぐって辛うじて脱出した2人を除いて全滅した。脱出した中川玻瑠美ら2人も旬日あまりの後、死亡した。「運動場には手足を吹き飛ばされ、胴体だけの女性の死体がたくさん転がっていた」という。(中山楽器主人談)

 県立第二高等女学校の生徒は東練兵場の第二総軍作業場に1、2年生が動員され、疎開跡の片づけ、農耕作業に従事していた。動員数は不明で、1人が爆死した。

(『広島県庁原爆戦災誌』『広島原爆戦災誌』より)

 

 ■中国地方総監府とは

  中国地方総監府ができる前には、1942年に創設された中国地方行政協議会があった。行政協議会会長は県知事を兼ねており、45年4月21日、広島県知事・中国地方行政協議会会長として、前任の松村光磨に代わり大塚惟精が任命された
  45年6月10日行政協議会は廃止され、地方総監府制度が公布された。即日全国8か所に総監府が設置され、中国地方総監府の総監には大塚県知事兼中国地方行政協議会会長が就いた。 広島県知事の後任には、高野源信大阪府次長が発令された。

 中国地方総監府は、広島市千田町の広島文理科大学内に設けられ、総監の大塚ほか、副総監に服部直彰が就任、幹部には内務省の官吏が出向、広島県庁の事務官もこれに加わった。
 総監府が発足する以前、1944年2月には、中国5県を管轄区域とする中国地方軍需監理部が、中島新町の元広島県農会事務所に設けられていたが、総監府の発足にともない、「軍需監理局」となり、総監府の機構内に組みこまれ、被爆当時は八丁堀の福屋百貨店ビル内にあった。

 総監府は、原爆により高等官だけでも10数人が死傷したため事実上機能を失った。敗戦後の8月23日以降は児玉九一(児玉源太郎の七男)が大塚総監の後任総監となった。
 原爆投下時、総監府在籍者は約500人で、その多くが消息不明である。

 <中国地方総監府発足時の陣容>
 総監            大塚惟精  
 副総監           服部直彰〔前陸軍司政長官〕 
 秘書官  副参事官   武藤文雄  
 総監官房 官房主幹   川本邦雄
 第一部   部長     青木重臣〔前広島県警察部長〕 
 第二部   部長     並木龍男 (前農商務書記官) 
 第三部   部長     藪谷虎好〔前鉄道監〕 
 第四部 (外局)
   中国地方軍需監理局 
   長官 陸軍中将    原 乙末生
 (第4部のみ 福屋内に置かれた)

 中国軍管区司令部は、9月1日に広島城内の焼跡から、佐伯郡五日市町の岩国燃料廠五日市出張所跡に移ったが、11月末、一旦廃止されて、新たに第一復員省中国復員監理部として、業務を開始した。


 ■それまでの広島

 原爆投下前の広島には、兵器、被服、糧抹廠などの補給廠、陸軍病院などの軍施設、陸軍船舶司令部、第5師団などの部隊があった。
 1945年4月に第二総軍が編成されると同時に、「本土における決戦軍」の名のもとに第59軍がおかれ、広島は一層重要な軍事基地の町となった。

 『広島軍司令部壊滅』(宍戸幸輔)によれば、8月6日は、新設の第224師団の編成、動員の最終日だった。224師団は「赤穂師団」と呼ばれ、師団長は河村参郎中将。中国軍管区司令部南に広がる西練兵場には、応召した兵士や家族、町村役場の職員など、およそ7500人が集まり、8時30分の入隊時間を待ち、歌を歌い士気を鼓舞していたという。
 また、この日は広島地区司令部の小谷一雄少将が総指揮官となり、政府の要求で突貫作業に入っていた第6次の建物疎開が、各方面に作業員の非常召集をかけた1日目に当たっていた。 

 郡部からの「広島地区特設警備隊」への動員は7月下旬から、ほぼ10日単位で行われ、8月6日には賀茂、豊田、世羅など7つの郡から3550人が動員された。

 職場義勇隊などの国民義勇隊と学徒の大量動員は8月3日から始まり、義勇隊約3万人、学徒隊1万5000人が連日出動を命令された。8月6日は、広島市の連合町内会ごとに構成された33義勇大隊のうち、29大隊と、佐伯、安佐、安芸各郡の地域義勇隊、38の職場義勇隊と39校の学徒隊が出動した。
 「動員学徒犠牲者の会」の調査によれば、広島市内への出動数は建物疎開の従事者で学徒は9111人、職場義勇隊1万4143人だった。 (『広島県戦災史』より)

 宍戸は「これらの資料から概算してみると、8月6日朝は、5万人以上の作業従事者が市内中心地区に集まっていたことになるが、実際にはその半数ぐらいではなかったかと推測される」と書いている。